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正しい仕事

キリスト教科学さきがけ』2010年04月 1日号より

Christian Science Sentinel, May 4, 2009


私は、自分が、人生で何をすべきか分からないときでも、次の給料がどこからくるのか分からないときでも、は、求めれば導いてくださるという考えが、とても好きです。であり、限りない善であり、そして、は私たち一人一人を必要としています。私たちは、これに基づいて、就業率の統計や景気が何を示そうとも、社会に意義ある貢献ができるのです。

2〜3年前、長年、キリスト教科学者として生きてきた人と話していたとき、彼女は、私たちには、それぞれに与えられた目的があり、その目的は自然に現れるのだと言いました。私は、その言葉に霊的な力を与えられました。当時、私は失業中で、教職課程の学位を持っていて、それまでは高校で教えていたのですが、何か他のことをすべきであるように感じていたのです。しかし、それが何なのか分かりませんでした。この友人と話したあと、私は導れたように感じながら、海岸へ車を走らせました。そのころ私は両親と一緒に住んでいて、近くに静かに祈れる場所があることに感謝していました。浜辺は、との対話ができる霊的な場所でした。私にとって浜辺は、常に、美と無限性の象徴だったのです。

午後遅く浜辺に座って、私は次のように祈りました:「よ、私に与えられた目的が、皿いであろうと、まったく違った職種であろうと、教職に戻ることであろうと、かまいません。それが何であろうと、私はそれをいたします。ただ、それが何なのか、どうか教えてください。そして、どのようにすべきか示してください」。私は、キリスト教科学で、先入観による条件付けをせずに祈ることの大切さを学んでいました。そうすると、人間の意志が入らず、限りない霊的理念の輝きが現れるからです。私は、それまでに何度も、の導きに本当に心を開くためには、恐れや、答えがどうあるべきかという思い込みを取り払うことが、いかに有効かということを見てきました。

少したって、車に戻ると、一人の男性がやってきて、彼の息子を助けてくれないか、と尋ねました。その息子は彼と一緒にいましたが、息子は実刑判決を受けていたのでした。彼は、息子は動揺しているが、私なら彼に話しかけて、元気づけてくれることができそうな気がする、と言いました。この男性の誠実さが感じられ、自分は安全であると感じました。ちょうどに仕えたいと祈っていたところでしたから、これは何かその答えに違いないと思いました。

その息子は、この事態のために、家族がもう自分を愛してくれないのではないかと心配していると言いました。私は、刑務所に入っている人々を知っていたので、自分の気持ちを話し、自分がこれらの人々に抱く無条件の愛について話すことができました。私は、彼の家族もまた、彼が刑を受けているあいだ、彼を愛し続けるに違いないと言いました。そして、私が知っているこれらの人々は、今、家族を持ち、以前とはまったく違った人生を歩んでいることも話しました。私たちは、半時間ほど話していました。話を終わるころには、私たちは笑ったり冗談を言ったりしていました。父親は、私を車の所まで送ってきてくれながら、「あなたは天使に違いない」と言って、さかんにお礼を言いました。

私は、車を走らせながら、冗談に「さて、さま、人を助けることができたのは素晴らしいことでしたが、次に、私は何をしましょうか?残りの人生をずっと、浜辺で過ごしなさいというのですか」と、心の中でつぶやきました。

私は、なお、自分の目的が明らかにされることを願って、家に帰り、その夜は、静かにベッドに座って、答えが出るまで、気を散らさないように動いたり立ったりすることを控え、心を静めていようと決めました。まもなく、地元の刑務所に連絡して、ボランティアとして英語を教えられないか聞いてみようという、はっきりした考えが浮かびました。

翌日、電話をすると、教育担当官が、有償の英語教師募集の新聞広告を見たのかと聞きました。私は、見ていませんでした。すると、その人はその仕事に応募するように、と言いました。自分の教職の経験が、このような形で活用できるとは考えたこともなく、びっくりしました。

そして、私はその刑務所の仕事に応募し、候補者の中に入りました。しかし、の素晴らしい導きはそこで終わったわけではありませんでした。面接の直前になって、刑務所か電話があり、複数の保証人が必要であり、30分以内に連絡が取れないと、それ以上進められない、と言ってきました。これまで、一緒に教えていた友人たちは全員不在でした。

再び何をすべきか知るために祈っていると、2人の同僚の名前が思い浮かびました。その2人目の人に電話をしても連絡が取れなかったとき、私は、次のように祈っていました。「さま、もし私がこの仕事をもらうべきなら、あなたは私を助けてくださらなければなりません」。すると、道の向こう側を、ちょっと散歩してみよう、という考えが起こりました。最初、それがどんな助けになるのか、分かりませんでした。しかし、神性のの知恵に反論しないことを学んでいたので、そのメッセージに素直に従いました。5メートルも歩かないうちに、連絡を取ろうとしていた同僚に出くわしたのです。彼女は買い物に来ていたのです。そして、快く保証人になってくれました。

刑務所は、すぐに私を雇ってくれ、そこで私は2年間働きました。そこでの仕事は、それまで経験したことがないほど充実したものでした。受刑者たちと、とても深い会話をたくさんしました。また、施設の図書室に置いてあった『科学と健康』を読み始めたという一人の男性と、キリスト教科学について話すこともできました。

この刑務所での経験で霊的に高められて、私は、現在、子どもたちに力を与える演劇の仕事をしています。詳しく言うと、刑務所の仕事のあと、小学生を対象とした、いじめをなくす芝居を、書いて演じるという仕事に入ったのです。

聖書は、「にはなんでもできないことはない」(マタイ19:26)と述べています。私は自分自身の経験から、は、私たちを成長することができないものとして、あるいは善を行う努力に限界ある存在として、見るなどとは信じることができません。グラフや数値が何を示そうと、は、私たち一人一人に、適切な仕事、適切な場所を備えているのです。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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